「がんになるかもしれない」、そう告げられ、数ヶ月、あるいは数年に一度の検査を受けながら、ただ進行しないことを祈り続ける。このような「経過観察」という名の時間は、患者さんにとって計り知れない精神的負担と不安を強いるものです。
血液がんの一種である多発性骨髄腫(Multiple Myeloma: MM)も、そうした病気の一つです。MMは多くの場合、MGUS(意義不明の単クローン性ガンマグロブリン血症)やSMM(くすぶり型多発性骨髄腫)といった、症状のない「前駆病変」や「前段階」を経て発症します。しかし、これまでの大きな課題は、MGUSやSMMと診断された人のうち、誰が、そしていつ本格的なMMへと進行するのかを正確に予測することが極めて困難だったことでした。診断は、がん細胞が骨や腎臓などの臓器に障害を引き起こし、症状が現れて初めて確定されてきたのです。
この長年の課題に対し、包括的なゲノム解析という最先端の武器で挑んだ研究成果が、国際的な医学雑誌『Journal of Clinical Oncology』で発表されました(Maura et al.)。
キーポイント
- 「くすぶり型」の多くは遺伝子レベルで「がん」だった:症状がなくとも、「くすぶり型」SMM患者の85〜94%、MGUS患者の39〜47%は、ゲノム(遺伝情報全体)レベルではすでに本格的な多発性骨髄腫と区別がつかない状態(ゲノム的MM)であることが判明しました。
- 進行リスクゼロのタイプを特定可能に:一方で、遺伝子的に良性で、追跡期間中に進行するリスクがゼロだったタイプ(ゲノム的MGUS)も明確に区別できるようになりました。これにより、多くの患者を過剰な不安から解放できる可能性があります。
- ゲノム情報で未来予測の精度が向上:ゲノム情報と従来の臨床データを組み合わせることで、将来MMへ進行するリスク予測の精度が大幅に向上し、より個別化された医療への道が開かれました。
1. 「くすぶり型」の多くは、すでに遺伝子レベルで「MM」だった
今回の研究がもたらした最も衝撃的な発見は、臨床的には無症状の前駆病変であっても、その多くが生物学的にはすでに「がん」であるという事実を突き止めたことです。これは、多発性骨髄腫の診断基準を根底から揺るがす可能性があると言えるでしょう。
研究チームは、患者の細胞のゲノム情報を詳細に解析し、これまでの臨床的な分類とは別に、生物学的な実体に基づいた新しい分類を提唱しました。この分類の目的は、まず予後を予測することではなく、生物学的に全く異なる二つの集団(悪性か、前悪性か)を明確に区別することにあります。
- ゲノム的MM (Genomic MM):症状はなくても、ゲノムの特徴がすでに本格的な多発性骨髄腫と区別がつかない状態。悪性転換が完了していると考えられる。
- ゲノム的MGUS (Genomic MGUS):ゲノムに変異が少なく、悪性転換が起きていない、あるいは起きる可能性が極めて低い状態。
分析の結果、臨床的に「くすぶり型(SMM)」と診断されていた患者の実に85〜94%、そして「前段階(MGUS)」とされていた患者においても39〜47%が、この「ゲノム的MM」に分類されたのです。これは、私たちがこれまで「前がん状態」と呼んできたものの多くが、実際には臓器障害という“症状”が出ていないだけの、生物学的な「MM」であったことを意味します。これは固形がんにおける「上皮内がん(carcinoma in situ)」の概念に似ています。上皮内がんは、臨床的には何年も静止しているにもかかわらず、ゲノム上はすでに「がん」に共通する多くの遺伝子異常を持っているからです。
この発見は、従来の「症状が出てから診断する」アプローチから、「生物学的な実体に基づいて診断する」という、より本質的なアプローチへの転換を強く促すものです。ただし、MGUS患者における約4割という高い数値については、注意が必要です。本研究に参加した患者は大規模ながん専門施設に通院しており、地域社会で診断される一般的なMGUS患者よりもリスクが高い傾向があるため、この割合は「実際よりも高く見積もられている可能性が高い」と論文においても言及されています。
2. 進行リスクがほぼゼロの「真の良性タイプ」の特定
一方で、「ゲノム的MGUS」という分類は、多くの患者を過剰な不安や頻繁な検査から解放する力を持っています。MGUS患者の約60%、SMM患者の約10%を占めた「ゲノム的MGUS」に分類された患者は、追跡期間中(中央値46ヶ月)、誰一人として多発性骨髄腫へ進行しなかった(進行率0%)のです。
この結果は、臨床現場において非常に重要です。医師が患者に対し、「あなたのタイプは遺伝子レベルで見ると極めて安全で、将来がん化する可能性は非常に低いと考えられます」と、科学的根拠に基づいて伝えられるようになるのです。これは、患者さんの精神的負担を劇的に軽減するだけでなく、不要な検査や医療介入を避け、医療資源の適正化にも繋がる重要な一歩と言えるかもしれません。
3. リスクの層別化:「ゲノム的MM」の中で進行を加速させる“4つの危険因子”
「ゲノム的MM」と分類された、つまり生物学的にはすでに「MM」である患者群の中でも、その後の経過は一様ではありません。何年も安定した状態を保つ人もいれば、急速に症状が現れる人もいます。この臨床的な多様性の謎を解き明かし、進行リスクをさらに細かく予測することにおいても、ゲノム情報は重要です。
本研究は、「ゲノム的MM」の中で、MMへの早期進行と強く関連する4つの主要なゲノム上の危険因子を特定しました。
- RAS遺伝子の変異
- MYC関連のゲノムイベント
- コピー数異常(CNV)シグネチャ
- APOBEC変異誘発
これらのゲノム上のドライバー変異を特定することの意義は非常に大きいと言えます。これにより、「ゲノム的MM」の中でも、特に進行リスクが高く、早期の治療介入を検討すべきハイリスクな患者を、より正確に見つけ出すことが可能になるのです。しかし、なぜ同じ「ゲノム的MM」でも進行に差が出るのでしょうか。研究者らは、その答えの一つが免疫システムにある可能性を指摘しています。ゲノム的には「MM」であっても、患者自身の免疫系がその増殖を抑制している(免疫監視)間は安定しているが、何らかの理由でその監視が破綻した時に、一気に進行するのではないかという仮説です。これは、今後の治療戦略を考える上で極めて重要な視点となります。
4. 予測精度の向上:ゲノム情報がもたらす「未来予測の新基準」
より正確なリスク予測は、将来の治療戦略を大きく変える可能性を秘めています。本研究では、従来の臨床リスクモデルにゲノム情報を統合することで、未来予測の新たな基準となるモデルを提案し、その有効性を証明しました。
これまで、SMM患者の進行リスク予測には「IMWG 2/20/20モデル」という臨床データに基づくモデルが標準的に用いられてきました。この研究では、このモデルに前述のゲノム情報を加えた新しい統合モデル「ゲノムIMWGモデル」を開発しました。その結果、MMへの進行を予測する精度が大幅に向上することが示されました。モデルの予測精度を示すc-index(モデルの予測精度を示す統計指標:1.0が完璧な予測、0.5が偶然に等しいことを意味する)が、研究の学習用データセットで0.69から0.74へ、検証用データセットでは0.74から0.79へと有意に向上しました。
このc-indexの改善は、早期治療によって最も恩恵を受ける可能性が高い患者をより正確に選び出し、一方で進行リスクの低い患者には過剰な治療を避けるという、真の「個別化医療」の実現に大きく近づくことを示唆しています。
結論
本研究は、ゲノム解析という強力なツールを用いることで、多発性骨髄腫の「前駆病変」という概念を根本から見直すものでした。これまで曖昧だった「前段階」は、生物学的な実体に基づき、「進行リスクのある悪性腫瘍(ゲノム的MM)」と、「進行リスクが極めて低い良性の状態(ゲノム的MGUS)」という、二つの全く異なる集団に分けられることが明らかになったのです。
本研究には限界もあります。例えば、今回の解析では同一患者の経時的なサンプルが含まれておらず、時間経過に伴うゲノムの変化を追跡できていない点などです。今後の研究では、こうした課題の克服が期待されます。
それでも、この発見が切り拓く未来の医療は、二つの道を示しています。一つは、「ゲノム的MGUS」と診断された患者を過剰な不安から解放し、経過観察の頻度を減らすといった「介入のデ・エスカレーション」。もう一つは、「ゲノム的MM」と診断された高リスク患者に対し、臓器障害が起きる前に治療を開始し、発症そのものを阻止する「がん迎撃(インターセプション)医療」という方向性です。これらの知見が臨床に応用される未来は遠くないと思われます。